偶像崇拝
ここ最近、櫻坂のことしか考えていない。
移動中は櫻坂の曲を聴くし、家での食事中は櫻坂のバラエティを見るのが日課で、深夜はネットで櫻坂関連を漁るのが楽しみになっている。
今日の有料ライブ配信はみんな顔が良すぎて鳥肌が止まらなかった。暗い部屋の中1人で喚いていたので、現地に参戦すると周りに迷惑をかける気がする。でも現地参戦はするつもりだし、なんならドーム公演確保済みなので気持ちが高ぶる度に「大丈夫、これよりスゲェのが見れるから」と優越感しかなかった。
交流
Twitterは距離感ムズいのでオタク同士あんまり繋がりたくないのだけど、TikTokはコメント欄という距離感が約束されたエリアでオタクたちとわちゃわちゃ交流できるので割と楽しい。Youtubeは距離感ありすぎるので、コメント欄がただの感想欄になってしまうのでつまらない。TikTokはコメント欄がトーク欄という感覚だと思っている。
まあコメント欄って定義が広すぎるから今の人類にはまだ扱いが難しいよね。現代の問題児、ヤフコメは閉鎖するか否か議論(これもコメント欄において)されてるし笑
誠実さ
数日後に乃木坂のライブ遠征なのだけれど、あんまり気合いはない。けど実際ライブ行ったら「乃木坂しか勝たんw」とかほざいてそうだけど。でも浮気し放題なのがアイドルのいい所ですから。
推しを1人だけ決めて推し続けるのが誠意なのが僕にはよくわからないな。我慢して1人に決めてるのが偉いの?その我慢は誰が救ってくれるの?まさに推し本人?単推しオタクしていればアイドルから特別なレスポンスが返ってくるとでも?いやいや。アイドルからすれば単推しオタクを見抜くことは難しく、単推しオタクに見せかけて実はDDオタクというDD人狼はそこら中にいるのだから、やっぱり単推しオタクをしたところで還元されるものは少ないと思うよ。
だってそもそもアイドル:オタクは1:10000とかでしょ?普通に不公平じゃん。なんなら僕らだって目移りする権利はあるよねって。多分単推しが誠意だと思っている人間は、アイドル:オタクが1:1だと勘違いしてる盲目ガチ恋オタクなんだよな。そのレベルは地下アイドルだと発生しかねないし、地下アイドル手出したら終わりだと思っているので趣味の程度にライトにオタクできればいいな。
轍を読む
僕たちはまだ終戦から100年すら経っていない世界に生きている。生まれた時から平和だったから、自分はユートピアに生きていると感じていた。でも最近ようやく歴史の途中に生きている実感が湧いてきた。令和に入ってから歴史的な事件が多発しているのは事実だけどそれは関係ない。ただ、今まで信じてきたものは人類がわずか数十年の間に構築してきたものだけに過ぎず、常識は簡単に崩れる可能性を秘めてることに気がついた。
だけど、ただ常識を疑えと思っている訳ではない。現代は人類のある程度の到達点だとは思っている。例えば、国境線が現状でなんとか折り合いがついていたり、民主主義で落ち着いたりね。
なんで世界をひとつの国に統一しないんだろうって考えたことがあったんだけど、それってまさに中世の元首たちが考えてたことで、なんやかんやドンパチあって今に落ち着いてるんだろうなって気づくと、もう国境が変わることはあまりないとすんなり受け入れられた。
民主主義もわりと受け入れられてる。やっぱりウィンストン・チャーチルの言葉が大きく自分の心に響いている。
これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。
先人たちが散々試みた末に落ち着いた政治体制に、今更僕たちは何を言うんだろう。
先人たちの歴史を趣味の範囲で読むことに関してはなかなか楽しいと思っているんだ。強制されて暗記するのはごめんだよ。
ハルキ
テスカトリポカをきっかけに、また本を読み始めた。悪い意味で常に何か考えてしまう性格なので、脳を疲れさせるには読書はピッタリだ。
遠藤周作、村上龍の小説を数作図書館で借りて読んだ後、村上龍の本でもまた借りようと「む〜」の本棚を漁っていたら、村上春樹の小説に出会った。当時は彼に興味はなかったけど、たまたま本棚にあった「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」はTwitterで見かけたことがあったから、とりあえずそれを借りることにした。
上巻の前半はかなり読みにくかったけど、だんだんとハマっていって最終的には下巻も読破して村上春樹にかなり興味を持つようになった。つい最近の映画で話題になってた「ドライブ・マイ・カー」の原作も彼によるものだと知った。とりあえず村上春樹作品を色々と読みまくろうと思って、ずっと前から名前だけは知っているノルウェイやカフカを借りようとしたけど、本棚にはなかった(借りられてた)から結局、これまたちょうど本棚にあった「ねじまき鳥クロニクル」を借りた。
やっぱり主人公は厭世的で孤独なタイプで、自分に重なってしまった。でも世間にこれほど支持を受けてるということは、きっとみんな表に出さないだけで人生に疲れていて孤独なんだと思う。そう信じたい。
結構キツイ不倫の描写もあったから、また人生の結婚について深く考えることになった。ここまで読んだ現状の僕の結婚観は、結婚不可能派です。(過激派!!)
でもやっぱり自分の哲学を深めてくれる小説が読んでいて楽しい。まだ中巻の終盤までしか読んでいないし、自分の結婚観も救われるかもしれないから、こんなこと書いてる暇があったら早く読み終えた方がいいよね。
単に淡々と
ブログを放置して半年が経とうとしている。主義主張をまとめて書こうとすると、力が入りすぎるみたいだ。仕事や副業でもない限りそれはやめることにした。あくまで自分の為に淡々と日記を残せればいいなと思ったので、また始めます。
「透明」な時代
「テレビは衰退した」
耳にタコができるほど聞いた文句。確かにコンテンツの変化を自分も感じてはいるが「衰退した」とは思わない。むしろ在るべき形に落ち着いたんじゃないかと思っている。
人間には心地よい距離感があって、とうとうテレビはその距離感を見つけたのだと思う。現代のテレビを見ていると、まるで透明なオブラートのゼリーに包まれた薬を呑まされているような感覚になる。コロナ禍を経たテレビ業界は特にそう感じさせる。
「この世は地獄だから君たちは優しい情報だけ受け取ってふわふわ生きていなさい」
と言わんばかりの業界の姿勢。
「どうせ残酷な現実与えても君たち絶望するだけだろう?」
反論はできない。自殺報道ガイドラインがあること自体がそれを証明してしまっている。
やはりテレビと人間には距離感が必要なのだろう。そういう意味では、テレビは進化したともいえるのではないか。
文句は続くよどこまでも
さて、冒頭の文句には続きがあることも有名だ。
確かにこれらのSNSには視聴者との距離感ゼロのおもしろコンテンツが詰まっている。だが完全にテレビと格差化できている訳でもなく、テレビと同じ「衰退」を迎えつつある。テレビがオブラートになったように、SNSコンテンツもオブラートに進化している。Youtubeの低評価非表示、インスタのいいね非表示といった諸々の非表示機能だ。
つまりここ数年で人間はインターネットを通じて人類と距離感ゼロの地獄コミュニケーションを取った結果、ネットでも距離感が必須ということを痛感させられたのだ。
オブラートに包まれた、透明な時代がやってくる。
コンテンツの寿命
小説を読み終えて、余韻に浸っているうちにその小説の二次創作があるのか気になった。ほとんどなかった。二次創作を漁ることは、いつも漫画を読んでいたクセだったことに気づいた。どうやらコンテンツには寿命があることに気づいた。
今回は原作二大巨頭の小説と漫画について、「コンテンツの寿命」という側面から考えてみる。映画やアニメはあくまで派生作品として今回は置いておく。コンテンツの寿命に対して、さらにふたつの側面から考えてみよう。
- 話題の持続
- キャラクターの人気
話題の持続
漫画は連載終了まで物語が終わらないが、小説は1度世に出してしまえば物語が終わってしまう。物語の起承転結も、漫画ならTwitterで逐一盛り上がるものだが、小説は世に出たタイミングで盛り上がったらそれっきりだ。漫画の方が話題性に優れているとわかる。
この「ちょい出し」というのはかなり重要だと考えている。最近だとNetflixで新作アニメを一気に放出してしまう例をみかける。確かに爆発的な話題性であり、これを機にNetflixに契約したというユーザーも少なくないとは思うが、コンテンツの寿命を縮めてしまっているのも確かだ。
キャラクターの人気
物語のキャラクターの人気はどこにあるだろうか。漫画のキャラクターが圧倒的に人気な理由は立ち絵だろう。人気漫画に引けを取らない濃厚な登場人物を小説で描いたとしても、立ち絵の存在でキャラへの愛着が湧くかどうか決まってしまう。特に、小説は二次創作において「イラスト」という枠が潰れてしまうのが痛い。小説に対する二次創作小説も存在するが、イラストに比べれば弱い...。やはり漫画の方がキャラクターの人気性にも優れている。
ちなみに、立ち絵によって差別化を図っている小説がある。ライトノベルだ。可愛い女の子の表紙と挿絵が描かれており、普段小説を読まないオタク男子もこれだけは愛読すると聞く。立ち絵の人気性に気づいた上手い商売だと思う。
おわり
作品として比較すればどちらに優劣をつけることは出来ない。そんなことは◯◯賞をつけたがる大人に任せればいい。
けれどこのような観点でみると、商業的には漫画が圧倒的に強いことがわかる。漫画は連載という仕様上、脚本がチグハグになりがちだが、そんな壁を乗り越えた漫画はまさに「究極」の商品と言っていいだろう。
『テスカトリポカ』
サイズ四六判、総ページ数560
四年間読書をしなかったブランク明けに読む本としては厚すぎるように思えたが、全くそんなことは無かった。特に最後の100ページは面白すぎて読み切って気づいた時には深夜3時だった。
このブログを読んでいる人は、テスカトリポカを読み終えて余韻に浸りたい人だと想定して書いているので、作品の説明はせずに個人的に良かったシーンの感想を断片的に書いていく。
〈ゴーレム〉がいなくなった
物語の本筋には関係ないが、話をユーモアに彩る数行。小学生の想像設定を詳しく説明してあるのも笑ってしまうし、〈多摩川に棲んでいる四つ目の鰐〉のオチも面白い。きっと著者は楽しんでここを書いたと思う。
煙を吐く鏡 登場
おれの神は罪を許す神ではない。バルミロは思った。地獄をも超越する戦いの神、
夜と風 、
われらは彼らの奴隷 、煙を吐く鏡 。
敵対カルテルに家族を襲撃され、命からがら逃げきってほんの一息つく一幕。ここから徐々に複数の名を持つテスカトリポカの意味やバルミロの信仰が明らかになっていくが、テスカトリポカ初登場にしては圧倒される2行だった。
コブラサテ開店
バルミロの通り名〈
寡黙なペルー人のオーナー、調理師の移動式屋台は、強引な客引きをすることもなく、釣り銭をごまかしもせず、路上で地道にコブラサテを売っていた。
シュール。バルミロかわいい。
地獄の説明会〈おへや1〉
ブラック保育園〈らいときっず小山台〉で社畜と化した宇野矢鈴を痛烈に描いたシーン。職員と保育士のほとんどがストライキを起こし、一人当たり十人の子供を見なければならない状況で、怒り狂った保護者への説明会を開く。そんな地獄の中で、保育園児のために書かれているひらがなの文字が皮肉のようで面白い。
コカインを常用するような人間が他人の子供を預かっている現状に何も思わないという、矢鈴の矛盾した人間性もしっかり描かれていて、これが矢鈴が車で暴走した根拠となっている。物語終盤のコカインと子供の間で葛藤するシーンはまさに矢鈴の人間性を痛快に描ききっている。
私が恐ろしい犯罪に加担していたとしたら、そのとき刑事は、私の住んでいるマンションを調べるかもしれない。調べないわけがない。私の部屋―
コカイン。
その言葉が雷のようにきらめくと、矢鈴はハンドルを切った。タイヤが軋み、アルファードが大きくゆれた。
捕まればもう手に入らない。不安がふくれ上がり、それしか考えられなくなった。あの白い粉を奪われた自分が想像できなかった。
矢鈴ちゃんクソカス^^
このくそガキが。
最高。テスカトリポカの実写化は不可能だと考えているが、このシーンだけでも見てみたい。個人的にはバルミロとコシモの花の戦争よりも、こちらの末永とコシモの心理戦の方が物語の最高潮だと思っている。
まず末永の裏切り発覚から始まるが、実は「末永充嗣」の名前が初登場する章でちょろっと
次に、裏切りに気づいたバルミロ陣営は末永殺害を計画するが、末永も一筋縄では無いので当然自分の置かれている状況を理解している。
そして運命の手術室がやってくる。コシモ含む殺し屋たちは心臓摘出後に末永を殺すつもりだったが、先に仕掛けたのは末永だった。末永は手術室の酸素濃度を下げることで直接手を加えずに全員を殺そうとした。以前、末永が手術室でスニッフィングするシーンで既に手術室の機能の説明はしてあったのだが、まさかここで使われるとは。野村と2人の殺し屋は失神し、チャターラと末永が殺し合っている中、コシモはギリギリのところで扉を破壊して酸素を体に取り戻す。
生き残ったのは、殺し合いの末にチャターラの死体に押しつぶされて動けなくなっている末永と、順太を連れ出すために贈り物を用意したいコシモ。
コシモの動きを見て悲鳴をあげて逃げようとする末永。とうとう心理戦が始まる。
「待て」「おれがいなかったら、あの子供の心臓を誰が取りだすんだ?心臓をおまえの神に捧げられなくなるぞ」
テスカトリポカを「迷信」とまで馬鹿にしていた末永が、ここにきて神を語り出した。コシモの立場になって説得を試みるも、コシモに神の名前を問われた末永は当然答えられない。必死になって次の一言を絞り出す。
やめてくれ。おれたちは家族だ
驚いた。この男は「虫唾が走る」ほど嫌いだったラテンアメリカ式の家族主義をこの場になってスペイン語で語り出したのだ。末永には正義などないのだろう。医者として自分のビジネスが成功すればあとはどうでも良くて、平気で立場をコロコロ変えて嘘を演じる。コシモが言葉を返す。
もうかぞくじゃない
なんて痛快なんだろう。コシモの言葉は、裏切り者は家族ではないという純粋な気持ちで咄嗟に出たものである。だが末永からすれば、絞り出した策が通用しなかっただけでなく、スペイン語を発した日本人が一枚
またしてもコシモの純粋さが皮肉に際立つシーンだった。
最期は醜態を晒して殺される。
このくそガキが。
とてもいい小説でした。
佐藤究『テスカトリポカ』特設サイト | カドブン