意外な嵐

他人の言葉を借りずに、自分の言葉で紡ぎます。ユーモアを大切に

第三の聴き方―水の振動で音楽を聴く―

通常、音は空気の振動が伝わって聞こえてくる。音楽においても、大衆が聴くコンサートから個人で奏でる楽器、そして1人で聴くイヤホンまでもが全てその仕組みだ。また近年、第二の聴き方として骨伝導イヤホンが注目を集めている。装置をこめかみ付近に当てて、骨を振動させることで音を聴くという実に近代的な発明だ。

ここで第三の音が伝わる媒体として、空気でも骨でもない、を提案したい。

この聞き方は厳密に言えば第三の物理現象ではない。耳の中に完全に水が侵入している訳では無いので、水の振動で伝わった音は耳のほんの少しの空間で空気の振動として伝わるし、さらに水の振動で頭蓋骨もとい全身が振動するので、骨の振動としても伝わる。いわば第三の聴き方なのだ。

実践

防水性のスマホかスピーカーを用意したら、それと一緒に湯船に潜水するだけ。背泳ぎのように仰向けになって耳だけを水に沈めても良い。音源がやや籠り気味になり、重低音が信じられない程響くのが特徴。音楽が全身を包む、今まで体感したことのない夢のような気持ちを味わえる。

尚、実践の時は浴室の鍵を閉めること。

妙に籠った音楽が浴室から聞こえると思って扉を開けたら、同居人が浴槽に沈んだままノッていたんです

家族が見たら、119番にかける前にどこに電話をかけるかは想像し易いだろう。

現代人は「スマホ迷子」に陥っている

スマホ迷子」と聞いてピンとくる人はいるだろうか。僕が作った造語なので知らなくて当然なのだが、思い当たる節があったら嬉しい。

スマホ迷子」とは、簡潔にいうとスマホの中で迷子になってしまう人のことである。つまり、やることがないけどスマホは手放したくないが故に、あてもなくホーム画面をフラフラ彷徨うような人の事を指す。

きっかけ

僕は都会の電車に乗る中で人々を見かけるうちに、そんな人が多いこと気づいた。決して覗いている訳でない。都会の電車といえば激混みだ。そうなると他人のスマホ画面など否応なしに見えてしまうものだろう。

スマホ迷子の人間はSNSもニュースも一通り巡回が済んでしまった、手持ち無沙汰な人たちだ。素直にスマホを閉じればいいのに、スマホ中毒者の彼らの彷徨うルートは相場が決まっている。

  1. ホーム画面からTwitterを開くも更新済。あえなくホーム画面に戻る
  2. 適当なフォルダを開くも、めぼしいアプリも見当たらずフォルダを閉じる
  3. ホーム画面を右に左とスワイプしてしばらく彷徨う
  4. とりあえずYahooニュース等の適当なアプリで時間を潰す

これこそが「スマホ迷子」であり、年齢性別に関わらず、スマホを持った状態でやることがないと陥りやすい現象である。

もちろん、意識的に暇にならないように長めのコンテンツ(動画、書籍)を用意している人もいるのだが、あえてここで「スマホ迷子」という単語を作ることによって、無意識のうちに非生産的な時間を過ごす一部の現代人に対して警鐘を鳴らしたい。

スマホ迷子に陥っていない?大丈夫?

問題点

スマホ迷子の問題点は、その非生産的な時間の使い方と、それによる目の無駄な酷使である。

限りある時間の中で、そして限りなくコンテンツが溢れる世界で、スマホ迷子に陥るのはあまりにも勿体ない。だが、空き時間を有効活用してコンテンツを吸収しまくれと言っている訳では無い。やることがないなら何もせずに、景色を眺める方がよっぽど肉体的にも精神的にも良いだろう。

景色を眺めるのは特に精神的に良い。実感しにくいとは思うが、景色による視覚的な開放感(コンクリートジャングルだと効果はないかもしれないが...)を得られ、そして下手にインターネットに触れないことで精神衛生が保たれる。

最後に

 現代の電車内の光景は、およそ20年前ではとても考えられない光景だと思う。当時はきっと、ある者は景色を眺め、ある者は活字を読み、そしてある者は音楽を聞いていただろう。現代でもそんな人々の姿は見かけるが、現代の描写にはさらに1行分「ある者はスマホ迷子に勤しみ...」と書かざるを得なくなってしまった。

スマホ迷子を否定している訳でもない。スマホ迷子が共通認識になった上で、選択肢の1つとしてスマホ迷子を選んでいるならもう何も言うつもりは無い。

歩きスマホと同じ認識だと思う。歩きスマホは既に共通認識であるが、やるやらないの選択肢は個人に委ねられている。

ただ、無意識にその状態に陥っている人たちに喚起をしたいのだ。